2025/04/25
図録など芸術関連書籍の買取【32冊 6,094円】
地域
今回は図録や美術関連を中心とした書籍を買い取らせていただきました。
早速、私が惹かれた作品集に触れていきたいと思います。
目次
諏訪敦氏の作品集
『諏訪敦作品集「眼窩裏の火事」 Suwa Atsushi: Fire in the Medial Orbito-Frontal Cortex』2023, 美術出版社
こちらは2022年12月から2023年2月まで東京都の府中市美術館で開催されていた画家の諏訪敦氏の個展に合わせて出版された作品集です。これまでの主な作品から最新作(当時)までが所収されています。
諏訪氏について簡単に触れますと、彼は1967年北海道で生まれ、武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程専攻油絵コース修了後、文化庁芸術家派遣在外研修員に推挙されスペインに2年間滞在した経験を持ちます。その後、2018年から現在に至るまで武蔵野美術大学造形学部油絵学科で教授として教鞭を執る傍ら、創作活動や執筆活動を行っています(経歴については本書の「諏訪敦 略歴」p172参照)。
さて、目を表紙に戻します。
表紙(拡大)
中央で男性とも女性とも判断のつかない、ただ、恐らくは若くはない人物が踊っています。しかもこの人物、よく見ると手が何本も生えているようです。更に目を凝らすと右横には仮面のような顔面も浮かんでいるような・・・?タッチはリアルでありながら、どこか現実離れした鬼気迫るものを感じさせる、不思議な世界観を持つ絵です。
タイトルの由来、2つ
ところで、この作品集の『眼窩裏の火事』というタイトル、とても印象的ではありませんか?この命名理由は画家自らが冒頭「所感「眼窩裏の火事」について」(p8~p9)で触れています。
① 美という感想をもたらす脳の部位
諏訪氏はこのタイトルについて、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの研究者らによる2011年の発表を踏まえていると語ります。その論文内容は“美を感じるという体験に、特定の脳の部位(内側眼窩前頭皮質)が関わっている”というもの。
ここで「眼窩の奥にある脳=眼窩裏」というワードが出てくるわけですね。
では、「火事」についてはどうでしょうか?
② 閃輝暗点(せんきあんてん)
そのまま「所感」より全文を引用したいところですが長大になってしまうためざっくりと要約すると、諏訪氏は目を酷使したときなど、ある条件が揃うと「視界の一部が溶けるような盲点が現れる」(p8)体験をするといいます。それは閃輝暗点という脳に関連する症状であり、諏訪氏の場合、注視点が陽炎のように歪んで見えるという形で表出するそうです。
像が結ばれる(=見える)場所も大雑把に言えば眼窩奥の網膜ですよね。
つまり、絵を描くために画家が対象をつらまえ「美」を評価するために機能する箇所と、画家に火事のような見え方を生じさせる箇所との両方を表す、理由が分かればこの上なくシンプルで納得のいくタイトルなのです。
「写実的」か「再現的」か?
実際にその「眼窩裏の火事」の結果、歪んで見える様子が描かれた作品(一部)をお見せします。
タイトル「眼窩裏の火事」(p98-p99) (部分)
※作品全体像はぜひ画集を購入し、お確かめください…!
静物の上にモヤモヤとした白い影のような、湯気のような、光の反射のようなものが現れています。おそらくこれが閃輝暗点が生み出す像を描いた部分なのでしょう。
ところで、上でお見せした画像からもお分かりかと思いますが、諏訪氏は精緻な「写実的」描写で知られる画家です。
辞書を引けば「写実的」とは
しゃじつ‐てき【写実的】
[形動]現実を、主観をまじえずありのままに表現しようとするさま。リアリスティック。
(コトバンク「写実的」デジタル大辞泉より)
と載っており、彼の作風を説明するのに間違ってはいない語義かと思いますが、本書で画家の作風を説明する際に採用されているのは「写実的」ではなく「再現的」描写という言葉です。そして、それは何かといえば
「再現的描写とは眼に映る像をそのままに描くことであり、「視る」ことに最も素直な描画スタイルである。」
(鎌田亨氏の諏訪敦論「みること・みえること・あらわすこと」(本書p13より))。
※鎌田氏は府中市美術館副館長で「眼窩裏の火事」企画担当者でもあります。
であるといいます。
「写実的」と「再現的」は何がどう違うのでしょうか?そして、これらを弁別する上で鍵となりそうな鎌田氏コメント中の「視る」は「見る」とはどう違うのでしょうか?
画家の視界 —「見る」と「視る」—
先ほどの作品「眼窩裏の火事」以外にも、画家の視界の様子が伺える作品があります。百合の花を描いた下の作品を参照してみましょう。
《そこにあるはずの》(p91)
この作品を描いたときのことについて、諏訪氏は既述「所感」で語ります。
「小品《そこにあるはずの》(p.91)を描いたとき、初めて自分の見ているものと絵の一致を感じることができた。私は百合の花を見つめようとしていた。でも花は手に届く位置に存在しているのに脳裏に鮮明な像は結ばれず、花には冷たい炎がまといついているようだった。」(p8)
おそらく、百合の花をこのように「見て」いる人はそうはいないと思うのですが、諏訪氏は彼の「見ているもの」と絵は「一致」していると言います。既に述べたように諏訪氏は閃輝暗点という特殊な見え方を体験しているため、同じ症状を持たない人には共有のしようがないイメージなのでしょう。
しかし、「あるイメージを共有できない」という問題は、身体的な条件が視界に影響を与えるといったようなときにのみ言えることなのでしょうか?
私にはそうは思えません。
諏訪氏もカントの「物自体(Ding an sich)」や「悟性」を引き合いに出しています(p8)が、そういった意味で、すべての人の見ている世界というのはおしなべて主観的なものです(カントの認識論や主観性、客観性についてはちょっと自信がないのであまり深く突っ込まないようにしますが…。)。
それは突き詰めて言うなら、そういった症状の有無に関わらず“ある人が見ている景色の「見え方」を、他人と共有することは決してできない”という話です。
しかも、私には “画家が絵を描く”という行為は、“見えているもののそのままをキャンバスに写し取る”ということとも少し違っているように思えます。すでに主観的なあり方で「見える」ものに更に画家なりの解釈や、その時々で表現したいメッセージを上乗せして作品という形に仕上げることを、一般的には“創作活動”と呼ぶのではないでしょうか。
そして、そこに画家の個性や自分と似た何かを鑑賞者が感じ取り共感することが、‟芸術を鑑賞する”という行為なのではないか?と私は解釈しています。
そう考えると、絵に限らず全ての芸術的表現は芸術家による二重の主観の投影 であるように思えます。つまり、「悟性」を働かせて「見る」作業を経たのち、そこに芸術家が対象の中に「視た」何かを表現して意味を与える、という作業ではないかと。ここでいう「視る」は身体的機能としての「見る」とは異なり、実際には「見え」ないものを具現化させるという画家の能力を言っています(あくまで、私スタッフNが、ですよ。)。
しかし、諏訪氏は先ほどの≪そこにあるはずの≫への所感にもみたように、今回の作品集で「個別的な見え方」(p8)をそのままキャンバス上に表現することに挑戦しているのです。
それは別の言い方をするならば二つ目の主観フィルターである“「視る」こと”をできるだけ排除しようという試みなのではないか…?そう仮定したとき、これらの作品群は主観のフィルターが薄い分だけ他の作品群よりも主観をまじえず描いている(つまり、「写実」に近い)と言えるのではないか…?と思えたのです。
対象を再構築する
しかしながら「見えたまんまを描いたぜ!」というのであれば確かに「写実」かも知れませんが、諏訪氏の対象への向かい合い方はそれに留まりません。既出の鎌田氏は、描く人物への諏訪氏の関わり方について次のように書いています。
「諏訪は描こうとする人物に関する様々な断片を拾い集めながら、その肖像を描いていく。…(中略)…単に依頼者の相貌を写すだけではなく、その人物像までをも把握しようとする。…(中略)…故人を知る人々に可能な限り話を聞き、家族のデッサンを重ねて故人に繋がる容姿を探り、…(中略)…亡き人に関する情報を一つひとつ拾い集めながら、諏訪自身の中でその人物像を再構成していく。」
(「第3章 わたしたちはふたたびであう」「再会の肖像画」(鎌田亨) P116より)
そのような描く対象への綿密な取材の例は代表作にも見て取ることができます。
代表作「HARBIN 1945 WINTER」のための制作過程画像。(p48-49)
上の画像は終戦直前に満州に渡り、その後のソ連侵攻に追われ中国の哈爾浜(ハルビン)で亡くなった父方の祖母をモデルにした諏訪氏の代表作《HARBIN 1945 WINTER》の制作過程です。
画家は父が遺した手記から祖母の晩年について知り、彼らのことを作品にすることを決意します。
本作品集には幼い頃の父を抱いた祖母と思われる写真も掲載されており、彼の手元に祖母の容姿についてのヒントが全くないわけではないことがわかります。彼女の姿を絵に写したいだけであれば、その写真のスケッチでこと足りるのではないか?と素人的には思ってしまいますが、彼の制作取材は徹底しています。当時の彼らの足跡をなぞるように中国北東部を旅し、彼らを知る人達を取材してまわるのです。
※なお、この《HARBIN 1945 WINTER》の制作過程を追った様子はNHKのETV特集で放映されました。詳しくはこちら。
上に見るように、実際の制作では、まず生きた若い女性をモデルに下絵を描き、画面の中で徐々に痩せ衰えさせていくという手法をとっています。次第に肌に浮かんでいく発疹もとてもリアルで、おそらくこの絵を完成させるためには病理学や解剖学的な知識も動員されているのでしょう。
最終的に現れる彼女の姿はそれだけで「写実的」な凄みを感じさせますが、背後に広がる荒涼とした大地の中に横たわる痛ましさは、きっと現地取材で得られた空気感や証言がないと表現しきれないものだったのではないでしょうか。
彼女の死から時を隔てた今となっては、亡くなった彼女の姿は実際にはそこに「見え」ません。しかし、彼女に関するパーツを拾い集め再構成することによって、画家にはそれが「視え」たに違いありません。
第3章「わたしたちはふたたびであう」
《HARBIN 1945 WINTER》は「第1章 棄民」からの作品でしたが、本作品集はそれに「第2章 静物画について」「第3章 わたしたちはふたたびであう」を加えた3章構成となっています。
先段から触れている諏訪氏の「視る」能力が最もよく現れているのが、第3章に登場する世界的舞踏家の大野一雄や、その大野の舞踏を独自に研究しコピーしている川口隆夫をモデルに描いた《Mimesis》(表紙作品)などの作品群です。
そんな絵の中から1つ、作品を見てみましょう。
《「ラ・アルヘンチーナ頌」を踊る川口隆夫》(p152)
この作品は、20世紀のスペイン舞踊の革新者であるラ・アルヘンチーナ・アントニア・メルセを讃え、大野一雄が創作した作品「ラ・アルヘンチーナ頌」を川口氏が踊っている場面を描いたものです。川口の耳から後頭部にかけた部分に目を凝らすと、メルセと思われる女性像が浮かび上がっているのがお分かりいただけるでしょう。
これを更に昇華させた作品が《Mimesis》であると考えて間違いはないと思います。ここに浮かび上がる幾多の腕や顔を持つ人物は川口氏が追う大野氏の姿であり、またその大野が追うメルセ女史の姿でもあります。諏訪氏は、対象との(直接的、あるいは間接的な)インタラクションの後に川口氏に重なる彼らの姿を本当に「視た」のではないでしょうか。
それは「知覚器官が受け取ったそのままの、私(画家)にとってのRAWデータのようなもの」(「」内、p8より引用。( )内は筆者補足) を主観的に再構成するという行為とほぼ同義であるように、私には思えます。
結局、「再現的」で正しいのかも知れない
ここまできて、先ほどの‟なぜ諏訪氏の作品は「写実的」ではなく、「再現的」と表現されるのか?”という疑問が再び頭をもたげます。
しかし、「再構成」するという行為が諏訪氏の作品づくりに欠かせない過程であるならば、やはり「現実そのまんまを主観をまじえず表現する=写実」とは違う、と言わざるを得ないでしょう。そして、諏訪氏の中の全パーツを繋いで再構築させた像が、彼の知るその人そのものの「再現」であるならば、「再現的」というのが結局、一番しっくりくる表現なのだと思います。
ただ、「「悟性」が起動してこそ絵は描かれるもの」(p8) と諏訪氏も言うように主観のない絵なんてない、という矛盾にぶつかります。そうであるならば、「写実的絵画」という言葉自体がもはや意味をなさないのかも知れません。
…などとしつこく文章を書いてきて、代表作の≪Mimesis≫がまさに「再現」と訳されることに、今やっと思い至りました。画家の言いたかったことは最初からシンプルに用意されていたことに気づき愕然としたところで、私の考察めいたものは終わりたいと思います。
ちなみに、本書では既出の鎌田氏による詳細な解説はじめ、写真家の鈴木理策氏、早稲田大学文学学術院教授で美術史家の山本聡美氏、國學院大学教授の小池寿子氏らが書き下ろしたテキストも掲載されており、それらが諏訪氏の作品をさらに深く鑑賞するためのスパイスになっています。私の浅薄な考察では全く触れられていない死生観への洞察、以前『芸術新潮』2020年7月号に掲載された渡辺晋輔氏(国立西洋美術館学芸課長)との対談で語られた静物画の位置づけの話など、興味深いものが盛りだくさんです。本書をご購入されたら、是非それらプロの方が書いたテキストも作品と一緒に味わっていただきたいと思います。
上で私は“《Mimesis》は「再現」と訳される”として文章を締めましたが、鎌田氏が述べる(ミメーシス(模倣)、p117)とは全く捉え方が異なります。
どんな「視え」方があっても許される、それが芸術の楽しみですよね?と言い訳をしつつ…。
今回の高額買取商品一覧
1冊250円以上で買い取らせていただいた商品を一覧にしております。一番良いお値段のついた『~民藝の100年』は東京国立近代美術館で開催された同企画展の公式図録です。2022年2月に閉会されていますが、現在も「民藝・民芸」という言葉はアートに敏感な人々の俎上によく載っているように思います。その時々の話題や人気・流行も古本の買取額と販売額に直結します。
クリックすると拡大表示されます。
(買取額は市場の需要と供給のバランスにより変動するため、現在とは異なる可能性がございます。上記は2025.2.17時点の金額です。)
ところで、上の表をご覧になるとお分かりかと思いますが、当店ではISBNのない本の買取・販売も積極的に行っております。
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特に直営の販売HPでは過去から最近のものまで豊富に図録をご用意しております。
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今回も良書をたくさんお売りいただき、誠にありがとうございました!
スタッフN
※下の画像の書籍は送っていただいた本の一部です。