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2023/03/17

社会学・心理学等の書籍の買取 【96冊 7,094円】「母性愛という制度―子殺しと中絶のポリティクス」2001年、勁草書房

今回は社会学や心理学などに関する書籍を中心に買取させていただきました。以下に特に良い査定額をお付けできたものを紹介します。

「協働するナラティヴ──グーリシャンとアンダーソンによる論文「言語システムとしてのヒューマンシステム」」
「ナラティヴ・アプローチ」
「母性愛という制度―子殺しと中絶のポリティクス」
「脳卒中を生きる意味―病いと障害の社会学」
「クローゼットの認識論―セクシュアリティの20世紀」
「知の考古学 (河出文庫)」
「“語り”と出会う―質的研究の新たな展開に向けて」
「師弟のまじわり」
「スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ」
「看護における反省的実践 原著第5版」
「アウラ・ヒステリカ―パリ精神病院の写真図像集」

などなど。

上記のリストをみると、完全な社会参加を阻害されるような属性を持つ人々(実際にそうであるとか、そうである「べき」という意味ではありません)、例えば「女性」であること、「老い」、「障がい」や「病い」など、社会的弱者と言われるような人々にスポットライトを当てたテーマの本が多かったです。全体的に社会学的な捉え方をしたものが多い印象も受けましたが、周辺事項としての社会福祉、看護、哲学などのジャンルも含まれ、社会の闇を覗いてしまったような居心地の悪さを感じる一方で、それを問題意識と捉える知の頼もしさのようなものも感じてしまいました。

さて、今回の買取は一番古いもので1980年出版のものでした。ISBN(各書籍に付けられた10桁、もしくは13桁の番号)が日本において各書籍に付与されるようになったのが1981年からですので、ほぼすべての本にISBN、もしくはバーコードがあった状態でしたが、当店ではISBNやバーコードのない書籍についても買取をしております。古書店の中にはこれらがないと買い取ってくれない、もしくは値段がつかず引き取り程度となってしまうところもあるようですが、そのような経験をしたくないという方、是非当店をご利用くださいませ!

※ジャンルによっては内容が古くなってしまうと、そもそも価値が下がってしまうものもあります。「具体的にどんなものがそうなのか分からないんだけど…」という方は、事前見積(無料)で査定額の概算をお出しすることもできますので、お気軽にお尋ねください。

 

それでは、いつものようにお買取品から気になる一冊をピックアップしていきましょう。今回選んだのはこちら

「母性愛という制度―子殺しと中絶のポリティクス」2001年、田間泰子 著、勁草書房

です。

実は、今までフェミニズムやジェンダーの本のレビューは避けて通ってきたんです。どの立場をとっても叩かれそ…もとい、多くの人にとってセンシティブな問題でもあり誰もが納得できるような無難な意見が準備できないから、というのがその身も蓋もない理由なのですが、今回は魔が差したというか一度読み始めたら面白くて止まらなくなったというのが正直なところです。

そういうわけで、個人的な見解を書くことはできるだけ避けつつ綴っていきますが、偉そうに意見しているように見えても大目に見ていただけますよう、予めお願い申し上げます。

子捨て・子殺し・虐待…「母性喪失」に原因?

では、本の紹介に入ります。こちらの本では「フェミニズムの立場から母性を制度として捉え、<母親がわが子を殺す/捨てる>という行動を制度からの逸脱として考え」ます。そして、「女性たちに課せられてきた母性という制度がどのように変容したのかを明らかにする」ことを目的として書かれています。(「」内、本書「はじめに」より引用。)

著者がこのような問題設定をする前提として、「母性は、母となる女性がもつ、わが子を愛し育む本能的な性質だ」(同、「はじめに」より)と考えられてきたという、母性に対するイメージの確認があります。著者が「母性」は「制度」であると言うことの意味は、この「本能的な性質」の否定にほかなりません。そして、母性の有無や質を問われるシーンとして、母親による子殺しや虐待、そして中絶をピックアップし、それらの側面から母性という「制度」が戦後、いかに変容してきたかということを検証していきます。

その検証材料として著者が使用したのが新聞紙面における言説でした。本書ではまず、第Ⅰ部「子捨て・子殺しと母性」第二章「子捨て・子殺しの物語」で、子捨て・子殺し・虐待に関連する記事の新聞紙面専有面積を計算し、扱われている言葉(母親、父親、両親といった加害者に言及するものなど)の出現回数などを数え上げたデータ群を紹介します。そこから浮き彫りになったのは1973年に子捨てや子殺しを報じる新聞記事が一気に増加したという事実でした。そして、その1973年においては、上記のような分析の結果、「ダメな母親」や「欠陥ママ」という言葉で、その増加の要因を「母性喪失」に求める、つまり母親たちに責任を帰属させるという言説が形成されていたことを指摘します。

なぜ1973年にそのような記事の増加が見られたかについては、本書の中でもいくつか考えられる要因が推測されていますが、そのうちの1つに、その前年の1972年に東京で行われた国際心理学会大会があります。それに参加した記者たちが問題意識を持ち記事化し始めたから、というものです。そして、本書で指摘されている興味深い点は、それらの新聞における報道件数の増加と公的統計が示す子捨て・子殺し・虐待の認知件数には相関が見られない、ということです。

この辺りから「「母性」をめぐる言説は時代潮流の中で作られたものである=本能的な性質ではない」というのが著者が言いたいことなのかな…と想像できますね。

そして中絶も加わった

子捨てや子殺しや虐待については明らかに刑法で罰せられる犯罪なので、そもそもが社会的に逸脱した行為であるということには異論がないと思いですが、では、中絶についてはどうでしょうか?こちらも子どもの命を絶つという意味においては、倫理的には奨励されるべき行為ではないように思えます。

まず、確認しておきたい点は、中絶は「母体保護法(旧優生保護法)によって条件付きで合法化(司法上の非逸脱化)されている行為」であり(本書p109より)、あくまで「条件付き」の犯罪(堕胎罪)です(母体保護法 で人工妊娠中絶の適応条件が定められており、これに合致しないケースについては堕胎罪が問われる)。しかしながら、現在でも中絶届出件数は年間14万1,433件(私が確認できた最新のデータ:2022年厚生労働省衛生行政報告例「母体保護関係」より)にのぼり、減少傾向ではあるものの依然多くの人工妊娠中絶が行われている現実があります。これは、20年前に本書が出版された2001年当時から変わらない(※)傾向であり、中絶が社会的には逸脱行為である一方で、法的には非逸脱とされていることの矛盾を内部に孕んでいることの現れであり、その矛盾ゆえに時々に葛藤が生じていると著者は指摘しています。

※現在のデータについては対出生比を検討していないことと、コロナの影響もあるので、あまり確かなことは言えないですが…

中絶に関しては、第4章「中絶の論理」にて上段の「子捨て・子殺し」の推移を見るよりも長いスパンをとって、日本社会における逸脱⇔非逸脱の過程をみています。戦後の逼迫した食糧事情の中で人口政策、平たくいえば口減らしの手段として中絶が合法化(1948年の優生保護法改正)されます。

「一姫・二太郎」というフレーズを聞いたことがある方は多いと思いますが、このあとに「三サンシー」というフレーズのくっついた広告があったことをご存知の方はいらっしゃいますか?本書p119でこちらが紹介されているのですが、詳細については書いていないので補足いたしますと、「サンシー(ちなみに、C.C.C.と書いたらしいです)」というのは山ノ内製薬が販売していた避妊薬の名前です。つまり、「一姫・二太郎・三サンシー」とは、「1人目には女の子を生んで、2番目は男の子、3番目はサンシー(避妊薬)を使って妊娠しないようにしましょう!」という意味なのですね。そのくらい、政府・世論共に少産化を奨励した時期だったのです。その結果、1951年から1955年の間に中絶件数は激増します。

本書p120に掲載された別の避妊薬の広告。多産の家の困窮に比べ少産の家庭では余裕のある豊かな生活が送れると書いてある。現在の政策との違いに驚く。

そのような背景があったため、中絶が言説として否定的に報道されることも、この時代にはありませんでした(「この思想の普及過程で新聞記事においては中絶はそれ自体として表現されず、「産児制限」「計画産児」「産児調節」「家族計画」という表現の中に暗に示唆されるものとなった。」(p121より引用))。しかも、本書p125でも取り上げられているように、日本人は丙午(丙午生まれの女の子は家庭を滅ぼす、といったもの)の迷信などから、長い歴史の中で「中絶」をごく普通の産児調節の手段として用いていたという背景があり、中絶を倫理的にあまり問題視していなかったという土壌がありました。

しかし、この中絶容認ムードが行き過ぎた結果、日本は「堕胎天国」「中絶天国」であると批判されます。そして、人口抑制策としては効き目が有り過ぎ、人口ピラミッドのアンバランスさが問題視されるようになるのです。

その後の1970年代に何が起こったかというと、「中絶は胎児の生命を抹殺する行動である」という論調の登場です。また、ここでは単に中絶が単独のトピックで扱われたわけではなく、上段の「子捨て・子殺し=母性喪失によるもの」と一緒のカテゴリーの中で報道されたのでした。

母性という制度のポリティクス

上記のように、中絶は政治的な要請もあり公的言説の中での位置づけが揺れ動いた行為です。また、時期を同じくして、「産む・産まないは女性の権利」だとする1960年代のウーマン・リブ運動がアメリカから輸入されたこともあり、「胎児の生きる権利」と「女性の権利」との衝突という別視点、そして、優生思想への疑問視として中絶反対など多角的な論じられ方をしていき、複雑に絡み合うようになります。その時々で優勢なものの見方に流されるあたり、「日本社会における中絶の逸脱性は、人々の価値観の様相を映す鏡だと言えよう。」(p152)と著者は書いていますが、すべてはここに集約されているのかなと感じます。

そして、この中絶における言説は、戦後すぐから現在に到るまで婚外子の出生を忌避する(家族成員は夫婦と実子のみで構成されるべきという思想)という性格を持っており、その点から

「母性は、もし本当に母親たちの選択の余地なく子を産み育て愛する本能であったならば、中絶を支配する共同体的価値を侵食し突き破るはずである。しかし、本能であるはずの母性は、なぜか婚内子を産み育てるためにだけ女性たちに強要されているのだ。」(p171より引用)

と、本能的であるはずの母性と政治的な背景をもつ中絶との矛盾点を鋭く突きます。まさに、副題が示すとおり「母性」にもポリティクスあり、なのですね。

母性の周辺:理想の家族像、不妊

「子捨て・子殺し・虐待」に「中絶」まで加わり、その原因を母性喪失にみた1973年でしたが、その勢いは、実はすぐ後に失速しています。当初は女性の母性喪失に原因をみていた新聞各社でしたが、次第にその女性たちも現代社会の犠牲者であるという論調になるのです。父親は当初から「母と子」の密着の外におり不在化しているため、子どもが犠牲になる事件における「悪者」がいなくなってしまうことになります。ただ、このことについて、著者は母親が免責されたのだと楽観的には捉えていません。ある意味で 現代社会の被害者として母親たちを位置づけることで、弱い者、庇護が必要な者として母親たちが設定されてしまった、というのです。

また、本書メインは「子捨て・子殺し・中絶」の社会的逸脱の主人公である「母性を喪失した母親たち」という、母性喪失の言説がどう形成されてきたのかを論じるところにあるのですが、第7章では「不妊と家族の近代化」として、更に現代ではどのような家族像が理想化されてきたのかに触れ、それによって不妊のレッテルを貼られた家族や女性たちという新たな「逸脱」の形についても言及し、不妊治療をはじめとする医療がその「逸脱」を「統制」する手段として紹介します。

絡み合う諸相  ~感想~

以上のように、母性をめぐる言説には人口問題や優生思想や家族の理想像など様々な側面が影響を与えていることがわかりました。また、現在では女性を労働力と捉えるところから労働資本としての側面からも語られ得るでしょう。そして、巻末近くの不妊という「逸脱」を語る際には医療ですらも逸脱を統制する機能を果たしたという指摘は、今までに触れたことのないものであり、「そういう見方もあるのね!」という発見はありました。

そして、こういったものたちに「母性の制度は・・・(中略)・・・利用されている」と著者は書きますが、それは「母性の制度」に限ったことではなく、あらゆる言説に言えることなのではないかな、とも思います。フェミニズムに関する本を読むときに感じるかすかな違和感は、こういった抑圧や搾取の被害者としての女性の存在を強めに感じる記述なのかも知れません。

・・・我ながら曖昧な書き方です(苦笑)。抑圧や搾取がない、とは言いませんし、同じ女性として「母性」という言葉に抵抗を覚えることも事実であり、その根には「なぜ、いつも、女ばかり?!」という怒りが潜んでいることも確かです。しかし、誤解のないよう書きますが、本書ではそういった感情的な記述はほとんどと言って良いほど無く、あくまで「こういった新聞記事があった」→「こういう傾向が見られた」→「こういうことが推測される」ということが淡々と綴られています。

その引いた冷静な目線と、一方で「おわりに」で語られた著者自身の母と、その背を通して見えた実際の家族・女性の景色から問題設定をする過程のリアリティが、本書の論考と読者の理解を繋ぐものであるようにも感じられ、改めて本は巻末まで目を通さないといけないな、と感じさせてくれた本でもあります。

著者は同じく「おわりに」で「個人的なことは政治的である」とフェミニズムの基本的視点を披露していますが、逆もまた然り。政治的な思想が個人的な選択にも影響しているのだとしたら?それが女性の人生を大きく変える出産や家族に関する理想像や一般に流布する言説と絡み、知らず知らずのうちに女性特有の悩みを発生させているのだとしたら?

女性のために何かしら行動を!なんていう大きな思いは惹起されずとも、社会的に構成された「枠」の中で生き、それに侵食されることで人生が損なわれている可能性、逆に言えば、それに気がつけばより良い生が望める可能性に思い至らせてくれる本でもあるのだ、と結んでみます。

 

今回も良書をたくさんお譲りいただき、ありがとうございます!

スタッフN

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