2025/08/01
図録などの買取【195点 16,138円】
今回は芸術作品の展覧会開催時に発行された図録や作品集などを中心に買い取りました。
さて、お売りいただいた書籍には芸術の中でも写真表現に関するものが多い印象です。例えば、
何気ない街角のスナップショットが代名詞の写真家の作品集(『森山大道全作品集』大和ラヂヱーター製作所,2003)、
多数のアーティストが有名ブランドのアイコンバッグをテーマに独自解釈で制作した写真・オブジェ・映像などの作品集(『LADY DIOR AS SEEN BY』クリスチャン・ディオール,2012)、
ハイコントラストの白黒写真が鮮烈な印象を与えるイタリア人写真家の作品集(『マリオ・ジャコメッリ(完全日本語版)』岡本太郎 訳,2009,青幻舎)
などなど…。
しかし、その中で、「これは…写真…集…?」と一瞬迷ったものがありました。今回はそちらをピックアップしてご紹介したいと思います。
目次
「材料はノリとハサミ、それからあなたの指先だけ。」
それがこちら
『岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟』2019年、青幻舎
です。
ドレスをまとった女性が中央にいます。背景はビル群。そして、蝙蝠傘が何本か。彼女の足元を見れば宙に浮いているようです。何より目を引くのはその首から上。これは扇子…?
1つ1つのパーツを順に凝視しながら言葉にすると滑稽さすら感じる画像なのですが、一方で少し懐かしいような、いつか夢で見たような既視感を覚えるのは何故なのでしょう…?しかも、これは絵ではなく写真です。よくよく目を凝らすと写真を切り抜いて貼り合わせてあることが分かります。
本書は2019年1月26日から4月7日に東京都庭園美術館で開催された同タイトル展覧会の公式カタログです。上の写真で図録と一緒に写っているのは、お売りいただいた本の間に挟まっていた当時のチラシで、見出しの「材料は~」はそのチラシに書かれている文言なのですが、これはタイトルにもある「フォトコラージュ」の性質を良く表しているコピーです。
「フォトコラージュ」とは既存の写真を切り貼りして組み合わせ、別の作品として表現する手法のことです。元となる写真を自分で撮影しなければならないわけでもありません。つまり、誰かの写真数枚を拝借してハサミで切ってノリで貼り合わせれば良いのですから、随分とお手軽な創作活動に思えますよね。実際、絵を描くのは苦手だという人でも、そこら辺にあるオシャレな雑誌を切り抜いてそれっぽく配置すればそれっぽい画像ができあがるため、趣味としても人気があるようです。
・・・しかし、これを「芸術」や「創作活動」と呼んで良いのでしょうか?
「ちぎり絵」がきっかけ
それを考える前に、作者の 岡上淑子について触れましょう。
彼女は1928年高知生まれ。1931年に父親の仕事の都合で東京に移住し、13才から17才まで麻布にあるミッションスクールに通いました。彼女はその青春時代をまさに太平洋戦争の只中で過ごしたことになります。
そして戦後すぐ恵泉女学園高等部に入学し1948年に卒業、同年、小川服装学院に入学します。21才で同学院を卒業し、更に1950年には文化学院デザイン科に入学しました。(本書巻末「年譜」参照。)
彼女はこの文化学院で、たまたま美術の授業で課題に出された「ちぎり絵」をきっかけにフォトコラージュの制作を始めます。
(本書巻末の神保京子のテキスト「沈黙の薔薇 岡上淑子―鎮魂と祝祭のコラージュ」P195より)
彼女の創作期間はこの時期~結婚して制作から離れるまでの約6、7年間という非常に短いものでした。しかし、後述するように一時日本中に旋風を巻き起こすほど、彼女のフォトコラージュは高い評価を得ることになります。
瀧口修造との出会い
ところで、「フォトコラージュ」に話を戻しますと、実はこの技法は写真技術の黎明期から存在していました。しかし、特に盛んになったのは第一次世界大戦後に発生したダダイズムや、そこから派生したシュルレアリスムといった前衛芸術運動においてでした。
ダダイズムの“既存の意味のあり方を否定し破壊する”表現方法として、また、シュルレアリスムにおいても‟偶然性や無意識”を表現する手法として、フォトコラージュは活用されました。先ほど紹介した「ちぎり絵」に「偶然女性の顔が入っていた」というエピソードは、まさに淑子作品のシュルレアリスム的なあり方を裏付けるようですね。
さて、戦前・戦後日本でそのシュルレアリスム運動の中心となっていた人物に瀧口修造がいます。淑子は恵泉女子学園時代の友人の夫を介して、その瀧口と知り合いになります。すると、瀧口は彼女にシュルレアリスムの大芸術家マックス・エルンストのコラージュ作品を見せるなどして創作の幅を広げさせたのみならず、彼女が日本中から注目されるきっかけとなった初の個展開催(1953年)を後押しするなど、淑子のアート人生に少なからざる影響を持った人物でした。
こう書くと、瀧口も淑子のアーティストとしての才能を認めており、そして、淑子にとっても瀧口の影響は大きかったように見えます…よね?
賞賛と、嫉妬?
しかしながら、単純にそうとは言い切れない雰囲気が本書巻末のテキスト群からは漂ってきます。
例えば、淑子の個展のための案内状に瀧口が書いたこちらの文言。
「岡上さんは画家ではありません。若いお嬢さんです。」(p192)
…自分が見出した才能を紹介するにしては、皮肉が効きすぎている感じがしませんか?
こんな書かれ方をして、淑子もさぞかし心外だったのではないかと思いきや、そうでもなかったようです。本人の弁は次のとおり。
「私は美術の歴史も殆ど知らないし、また、絵を描くことにも自信がありませんでした。」(p183,『美術手帖』1953年3月号に掲載の淑子のエッセイ「夢のしずく」より)
「日常の生活を平凡に掃き返す私の指から、ふと生まれましたコラージュ。コラージュ―他人の作品の拝借。鋏と少しばかりの糊。芸術……芸術と申せば何んと軽やかな、そして何んと厚かましい純粋さでしょう。」(p187,『芸術新潮』1956年7月号掲載「ぴ・い・ぷ・る」より「コラージュ」から引用)
いかがですか?なんて芸術に謙虚な、「若いお嬢さん」然とした態度でしょうか!
先ほど淑子の学歴について述べました。戦後混乱期の若者のスタンダードがどうであったのかは正直よく分かりませんが、当時、特に女性がこれほどまでに学ぶ機会に恵まれていたケースは珍しかったのではないでしょうか。本書で岡上家の経済状況は特に言及されていませんが、きっとまあまあ余裕のあるお家だったのでしょうね。そんなイイトコのお嬢さんが「既存の芸術をぶっ壊す!」といったような激しい芸術論争に加わる絵面は少し想像しづらいです。
実際、彼女にとっては「瀧口と出会うまで、「シュルレアリスム」さえ未知の、耳慣れない言葉」(p195)だったのであり、同時代に活躍した日本の代表的なシュルレアリストたちとは交流を持っていなかったことが本書で明かされています。
それゆえ、彼女の作り出す作品世界は本当に誰の手垢もついていない、彼女にしか作り出すことのできないものだったのでしょう。その唯一無二性に瀧口は驚嘆し、感心し、だからこそ惜しみない援助をしながらも、どこかで嫉妬していたのではないでしょうか。それが「お嬢さん」という屈折した呼び方に繋がったのではないかと思わずにはいられません。
( なお、瀧口と淑子については神保氏の論考の第2節「瀧口修造と岡上淑子」に詳しく書かれています。)
再評価のとき
それにしても…
そんなお嬢さんが、流行りや芸術的趨勢に一切影響されることなく仕上げた作品がこれ
p43「戦場の歌」
や、これ
p9 「沈黙の奇蹟」
です。
明らかに不穏で異常な世界なのに、どこか品があって落ち着いた画面になるのは何故なのでしょう。「自分には自信がない」「これが芸術なんて厚かましい」と謙遜しながら制作した「お嬢さん」の人となりが反映されていることが一因にも思えます。しかし、写真のモデルに静かにハサミを入れ空中に浮かぶ首を作る過程を想像してみると、ほんの少し背筋がざわつく感じもするのです。
これらの作品には彼女が多感な時期に経験した戦争の記憶が反映されていると言われています。また、淑子が使用した素材は進駐軍を通して市場に流れた洋雑誌『LIFE』『VOGUE』『Harper’s BAZAAR』であったという事実に、何かちょっとした政治的主張を感じとることは深読みが過ぎるでしょうか?
p19 「懺悔室の展望」
こちらも元は『LIFE』誌に掲載されたの画像で、実際にはイラン国王の結婚式の情景を写したものなのだそうです。手前にいる女性2人は国王の姉妹で、花嫁を迎える彼を微笑ましく見守っているところなのですが、組み換え終わったコラージュ作品では髑髏が並び、死のイメージに塗り替えられています。
「この作品に謎めいた印象を与えていたのは、人生最良の祝祭と、人生の終焉である「死」のイマージュとを混在させることによって、ハレとケという絶対的な対極性が共存することとなった、アンビギュアスな不条理性であった。」
(p200、「懺悔室の展望」を説明した神保氏のテキストより)
既に書いたように彼女の活動時期はとても短く、それ故に一時的な流行の中でその作品が消費されてしまったきらいがあるように思われます。しかし、改めてその作品の意味―あるいは無意味―を考えるには、現在こそ相応しいということなのでしょう。近年になって彼女の再評価が始まったというのはその証左なのだと思います。
したたかな「お嬢さん」であってほしい
さて、ここまで岡上淑子という女性を無垢なイメージで捉えてきました。しかし、果たしてこんな画面作りを何も知らない「お嬢さん」が無意識的に成し得たのか、否か。もし、これが無意識下でなされたのであるならばシュルレアリスムの勝利と呼べそうです。
しかし、私個人としては、謙遜の裏に確信のナイフを持った「お嬢さん」が、実は鑑賞者が作品を見て翻弄されるのを「計算通り…!」とほくそ笑みながら見ていて欲しいという被虐的な願望を抱いていたりもします。・・・え、変態っぽいですか?
p164 「トマト」。育ちが良いだけのお嬢さんは、こんな配置にはしないと思うのです。
きっと、そのしたたかな姿にこそ、作者の思想を伝える「芸術」は付随すると思うのです。
冒頭の疑問「これは芸術なのか?」には、彼女の作品群はそんな「したたかなお嬢さんが仕掛けた芸術でしょう!」と答えたいと思います。
この記事では本書に掲載された100点近くにも及ぶ彼女の作品の魅力を、とてもではありませんが紹介しきれていません。彼女の作品に多く登場するモチーフ:パラシュート・馬・手・首無しの人物・鳥など…についても考察したかったのですが、紙幅がありませんので今回はここまで!
最後に皆様に、本書を強くオススメして終わりとします。
今回の高額買取商品一覧
以下は、お送り頂いたものの中から1点300円以上で買い取らせて頂いた商品の一覧になります。日本語のもののみでなく洋書もありました。
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(買取額は市場の需要と供給のバランスにより変動するため、現在とは異なる可能性がございます。上記は2025.7.3時点の金額です。)
ディスクものも買取ります
当店ではCDやDVD、Blu-rayなどのディスクものの買取も行っております。
例えば、上表の上から3番目の商品はロックバンド・サカナクションのライブ映像が収められたBlu-rayの初回限定Ver.です。初回限定盤特典である特殊パッケージ仕様+ブックレットが封入されているほか、人気曲『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』のリミックス映像も収録された、まさに豪華版です。
また、下から3番目は映画のDVDです。監督は1994年の7時間18分にも及ぶ超長尺作品『サンタンゴ』で話題となっていたタル・ベーラ。この『ヴェルクマイスター・ハーモニー』は上映時間だけ見れば2時間強と一般的な作品なのですが、使用カット数が37しかないというクセ強な撮り方をしているという意味で、やはり異常な作品ですね…。
ディスクものの買取傾向としては、流通数が多いポップスはお安くなりがちです。ですが、上記のような「限定版」や「あの有名監督の、マニア向け作品」など、ファンの心理をくすぐる少しニッチな商品には良いお値段がつきやすい傾向はあると思います。
とはいえ、自分の売りたいものがどれくらいニッチで希少なのか、調べるのは大変ですよね。
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今回もたくさんの良書をお売りいただき、誠にありがとうございました!
スタッフN
なお、本記事を最後にスタッフNはノースブックセンターを退社いたします。長い間、お目汚しな文章を読んでくださった方へ。ありがとうございました!











![『Bareback: A Tomato Project』 『岡上淑子 フォトコラージュ -沈黙の奇蹟-』 『SAKANAQUARIUM 2013 sakanaction -LIVE at MAKUHARI MESSE 2013.5.19-(Blu-ray Disc)(初回限定盤)』 『As the Call, So the Echo』 『素顔の宮家』 『洋書 LADY DIOR AS SEEN BY クリスチャン・ディオール』 『モードの体系――その言語表現による記号学的分析』 『マリオ・ジャコメッリ(完全日本語版)』 『サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』 『ヴェルクマイスター・ハーモニー [DVD]』 『原点復帰-横浜』 『森山大道全作品集 Vol.1 Daido Moriyama:The Complete Works 1964-1973』](https://www.northbookcenter-kaitori.com/wp/wp-content/uploads/2025/07/P90452_page-0001-e1752634312919.jpg)






