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2023/02/03

教育学・心理学等に関する買取 【152冊 13,384円】「学びの快楽―ダイアローグへ」1999年、世織書房

今回は教育学や心理学を中心とする書籍の買取をいたしました。その中から特に良い査定額をお付けできたものを以下に紹介いたします。

「拡張による学習―活動理論からのアプローチ」
「愛と憂鬱の生まれる場所―「脳科学の最先端」が教える、人間の感情と行動の「処方箋」」
「バフチン言語論入門」
「イライラしない、怒らない ADHDの人のためのアンガーマネジメント (健康ライブラリー)」
「公教育をイチから考えよう」
「「ノーマリゼーションの父」N・E・バンク‐ミケルセン―その生涯と思想 (福祉BOOKS)」
「脳を教育する」
「やる気スイッチをON! 実行機能をアップする37のワーク」
「LD・ADHD・高機能自閉症へのライフスキルトレーニング」
「MRI「超」講義―Q&Aで学ぶ原理と臨床応用」
「T式ひらがな音読支援の理論と実践」
「学びの快楽―ダイアローグへ」
「人間発達の理論 (青木教育叢書)」
「人間発達の科学 (青木教育叢書)」
「臨床場面におけるロールシャッハ法」
「乳幼児の話しことば―コミュニケーションの学習」

などなど。

一般的な学校だけでなく、養護学校などスペシャルニーズのある子どもたちに関連する福祉関連の書籍なども含めた教育や心理学に関する書籍が非常に充実しておりました。教育分野の注目トピックも時代により変わっていくので、古いものはやはりお値段が付きにくい傾向があると思います。ちなみに、上記リストの中で一番高く買い取らせていただいた本は「T式ひらがな音読支援の理論と実践」で2019年の発行です。こちらの本はディスレクシア(読字障害)のお子さんへの支援方法である「T式ひらがな音読支援」について書かれたものですが、やはり新しい内容のものは更新を重ねる前の内容の本に比べると需要が見込める分、高額査定をさせていただきます。当店では、このようにその瞬間の「旬」の本の価値を重視した値付けをさせていただいておりますので、すでに読み終わった本は新しいうちに是非、当店にお譲りください。

さて、すでに書いたように今回のお買取は教育学関連の書籍が中心なのですが、実はこれまであまり教育学の本、特に専門書には手を出してこなかったのす。それは、どこかで教育学とか教育心理学とかいった論理の世界と、教育の現場には著しい隔たりがあるというイメージがあったからでした。

ですが、今回はこちらの本をピックアップしてみました。

「学びの快楽 ダイアローグへ」佐藤学著 1999年、世織書房

です。「新しいものの方が高い」くらいのことを書いた冒頭部に矛盾するようですが25年近く前に出版された本です。今なお「学び合い」というキーワードと共に教育関係者に多数引用され、興味関心が尽きない論理を展開したものとして、内容的には古いと言い切れない部分が高額査定に影響しています。

著者について

著者の佐藤学氏は1951年広島生まれ。現在は東京大学の名誉教授であり、北京師範大学客員教授でもあります(佐藤氏の公式HP より)

本書は1999年出版当時、その直近5年間で氏が発表した25篇の論文を「学びの理論と実践を主題とするものを中心に選択し編集したアンソロジー」(本書「あとがき」より引用)です 氏は単著・共著ともに多くの教育関連書籍を執筆していますが、上記HPにおいて本書は「主な著作 主要5部作」の一冊に挙げられています。また本書は、同じく主要5部作に入っている『カリキュラムの批判 公共性の再構築へ』、『教師というアポリア‐反省的実践へ』(ともに世織書房刊)の姉妹編としての位置づけを与えられ、この3作で著者の10年間程の研究成果がまとめられていると述べられていることからも推測できるように、氏の教育に関する多角度からの見識が詰め込まれた力作となっております。

既述のように、本書は論文をまとめた論文集であるため、基本的には専門的な用語の並ぶ専門書となっています。しかし、「アンソロジー」という表現にも見えるように、異なる様々な媒体に氏が寄せた文章を集めているため、中には一般向けと言えなくもない、随筆のような趣のある章も含まれています。(特に「第Ⅳ部 学びの共同体へ  20教育・春夏秋冬」「21子どもの時間」など、本書も残りわずかになったところで読者に語り掛けるような調子に文面が変化します。約550Pの大作の最後には比較的柔らかな読みやすい文章が待っていてくれたので、少し救われた気になりました())

 生涯学習の本ではない!

さて、実は私がこの本を手に取った時、この本に期待していた内容は全く別のことでした。『学びの快楽』というタイトルから、勝手に生涯学習関連の本だと思ったのです。

「学校で勉強しなくなった大人も学ぶことをまた始めようぜ!楽しいぜ!」的な内容だとばかり。読み始めてみて、子どもの学校教における教育論の本だと気付いた次第です。

 

そこで、ふと考えました。なぜ、私はそんな勘違いをしたのでしょうか。

今でこそ何かを学ぶこと・新しい知識を身につけること、発見することに快楽に似た感情を抱くようになりましたが、小学生から大学生に至るまで「学ぶこと=勉強すること」は私にとって快楽とは程遠い行為でした。どちらかというと、修行に近い感覚です。そのため、その両者を並置させるとは思いもよらなかったのです。

私は先ほど、「学ぶこと=勉強すること」と書きましたが、本書ではまずこの点を指摘します。

 

「わが国の学校教育において学びは「勉強」と呼ばれる文化に支配されてきた。」「中日辞典をひくと「勉強」の意味は二つあり、一つは「無理をすること」もう一つは「もともと無理があること」である。わが国でも、明治20年代までは「勉強」は…(中略)…「無理をすること」を意味していた。」(本書 序論 学びの快楽へ 4 勉強から学びへ より引用)

 

…なるほど、私が学校教育でやらされていたのは「無理をすること」だったわけですね。まさに苦行。著者は学校における教育実践において、この「勉強」に代わる「学び」の復権を目指すべきだと主張します。

本書構成

本書では、この「学び」の復権にあたりどのような障壁があるのか、どのような思想的バックボーンが用意されているのか、これまでの教育では何がダメでどう改善すべきなのか等々について論じられています。本書の構成は以下のとおりです。

 

序論:学びの快楽へ

Ⅰ部 学びの理論の探求

Ⅱ部 実践としての学び

Ⅲ部 教育言説の脱構築

Ⅳ部 学びの共同体へ

上記のうち、Ⅰ・Ⅲがより論理/思想/哲学的な内容で、Ⅱ・Ⅳが実践的で教育実践の具体的な場の描写なども含まれています。著者は論理的オリエンテーションの強い読者はこの章立ての順番通りに、実践的オリエンテーションが強い読者はⅡ・Ⅳ部を先に読むと良いかも知れないという提案もしていますが、参考まで。

各論を読み進めていくと、問題点として教育学(≒心理学=論理)と教育実践(=現場)との乖離の話(第Ⅲ部 11実践的思考のなかの心理学)や、学校がジェンダーの再生産の場になっていること(第Ⅲ部 14 ジェンダーとカリキュラム)、教育への市場原理の導入やリベラリズムへの批判(第Ⅲ部 15贈与・再分配・交換の教育関係)など、「そう!まさに私が思ってたのはそれ!」と激しく同意したり、「そういう切り口で教育を捉えることもできるのか!」と納得したり、「そこは違う気がする」と突っ込みを入れたり、読むこと自体を楽しめました。

 特に、私が冒頭に書いたような教育論理と実践の乖離という点に、教育学者である氏が言及している点は印象的でした。

乱暴な要約をします

25(各論文が一章を構成しています)を通して氏が参照し、氏の思想に大きな影響を与えたと思われるのは『学校と社会』(1990)『民主主義と教育』(1916)を著したアメリカの哲学者ジョン・デューイの「公共性」と、『思考と言語』(1934)ロシアの心理学者レフ・ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」(=「子どもが一人で問題を解決できる発達のレベルと、その問題解決の過程に教師や仲間の援助が介在したときに達成される発達のレベルとの間に存在する「発達の可能性」の領域」(p49より引用))という概念かと思います。

本書中では詰め込み型学習、市場主義が入り込み競争が激化した受験、家父長制にその源流を見る教師の権威的で一方向的な授業スタイルなどなど日本の教育実践の場で見られる問題点が色々と指摘されていますが、どの点もこの「公共性」「発達の最近接領域」の2つの視点に立ったときに見えるものとして描出されています。そして、氏はそれらの問題を解決するために学校を生徒も教師も、そして親も教えあい、学びあう「学びの共同体」とする必要があると各所で主張します。本書のエッセンスを一言で表すとすれば、この「学びの共同体」に集約されると言っても過言ではありません。そして、それを実現するための一歩が「対話=ダイアローグ」(本書の副題は「ダイアローグへ」でしたね。)なのだ、というのが私の本書内容への大雑把な理解です。

教育は変わったのか

上の文章のどこかで、私は本書を読みながら「そこは違う気がする」と突っ込みながら読んだと書きましたが、「東大名誉教授の本に突っ込みを入れるなんて、何様?!」と思う方もいらっしゃるのではないかと思います。すみません。

しかし、何せ本書が発行されたのは25年近く前なのです。本書において主張された改善案がすでに一般的なものになっている部分もあります。

確かに、今なお氏の主張する教育改革のアイディアが正しく思われ、かつ未達成な部分(教育心理学と教育実践の場の乖離が認められることや、市場原理の浸透により教育格差が拡大していることなど)もあると思います。ですが、本書において「学力=貨幣」のメタファーにより「学力」を評価基準として扱うことを批判している点などについて、「では、それ以上に平等な指標とは何か?」といった疑問に対する答えは用意されていません。その答えとして想定されるであろう評価基準の多様化を氏は賛美していますが、一方でカリキュラムの選択制へは批判的であるなど、素人目には氏の中での主張が相矛盾するように写ったのも正直な感想です。

もしかすると、私の読み込みが足りないのか、氏の他の著作ではそこがカバーされているのか、四半世紀の時の流れの中で了解すべき言葉の意味自体が変化し、すでに理解不能なものになってしまっているのか…。いずれにせよ、一度の通読だけでは納得できない感触が残りました。

ある 教育を受けた者が、受けたその教育を正しく批判できるのか?

学校に通っていた時代の私が勉強に苦行を見たことはすでに書きましたが、自己矛盾する感情が自分の中にあることも同時に感じています。氏も、子どもたちを「学び」から逃走させる詰め込み型学習を批判しているわけですが、今、振り返ると、「あの、脳が若く元気な頃に詰め込まされて良かったな」とも思うのです。その詰め込みにより追い詰められてしまう子どももいるのかも知れませんが、追い詰められないとできない、逆に追い詰められればできる子どももいるのです。少なくとも詰め込みを迫られることで得られた知識のお陰で、見えなかった世界を見ることができるようになったと感謝もしています。著者も「あらゆる快楽は身体の苦痛を伴っている。…中略…受動が能動を生み出し、受苦が快楽を生み出すのである。」(p5より引用)と冒頭近くで書いてるように。

 ただ、これは私が受けた教育制度の中で、少なくとも私自身の挫折したという自覚的経験がないことから言えるに過ぎないのかも知れません。そして、教育を受けている子どもは、教育を受けながら人格を形成していく時間を生きる人でもあります。長じた後に自分が受けた教育を批判することは、「自分の学童期から青年期を否定することである」、そんなふうに無意識に感じるのではないだろうか…?年長者が「昔は良かった」とか、「今の若い者は」などと、自分の本当の過去がどうであったにせよ昔のありようを正当化してしまうように、自分の受けた教育を正しく批判することは実は大変難しいことなのではないかと思うのです。

逆に言えば、それだけ人生に深く埋め込まれたものが教育なのであり、「実践との乖離が~」とか言う前に、教育について深く考えること自体が良い「学び」へのヒントになるのかな、なんて感じた読後でした。

 

今回も良書をたくさんお譲りいただき、ありがとうございました!

※写真はお送りいただいたものの一部です。

スタッフN

 

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